小野伸二 (昔の日記からと記憶から)




1998年シーズン(浦和):浦和レッズ入団。Wカップ出場
 入団早々からチームの中核となり、ワールドカップにも18歳で出場。
1999年シーズン(浦和):キャプテンとしてワールドユース準優勝。レッズJ2降格
 4月にはキャプテンとしてナイジェリアでのワールドユースに出場し、スペインとの決勝には累積で出場できず、チームも敗れたが、準優勝。  7月の五輪予選フィリピン戦で大怪我し、10月からのファイブ・ファイナルズに出場するがトップフォームにはほど遠く、チームもJ2降格決定。
2000年シーズン(浦和):キャプテンとしてJ1復帰に貢献。シドニー五輪は逃す
 レッズ残留を決意。キャプテンとしてJ2の長丁場を日本代表にも出つつ戦う。
 3月には、右足首の手術を行ったが、5月に復帰。同月の試合で肉離れを起こして6試合欠場し6月17日に復帰。7月22日の試合で右足首捻挫したが8月の代表には出場。怪我が続いたためトップフォームに戻れず、シドニー五輪には出場せず。おかげでJ1復帰に貢献。年末には契約更改。
2001年シーズン(浦和):J1からオランダへ

2001/7/9 小野のオランダ移籍が決定

2001/7/14 小野が最後の駒場でゴール。3:1市原に勝つ
出島に残って試合後の壮行式典を見守っていた市原サポが、場内を一周する伸二にコールを贈る。私はジェフを好きだ。
2001/7/20 小野、最後の大原練習

2001/7/21 小野のJラストゲームで広島に勝利

2001/7/19 渡欧を前に婚約者との婚姻届を提出


01−02シーズン(フェイエノールト):左ボランチに定着。UEFAカップ優勝に貢献
 当初いろいろのポジションを試されたが、結局、4−2−3−1の左ボランチ(CMF)に定着。右の主将ボスフェルトが上がり気味でバランサーとしての動きが多かったが、前線へも顔を出す。
 ファーストゲームでアシストを記録したトマソンとの連携は見事だったが、トマソンはこのシーズン限りでインテルへ去る。
 小野は2002年6月のワールドカップ本戦に出場するが、直前に虫垂炎となり、薬で散らして出場するも、実力は発揮できず。
2001/7/22 小野がオランダへ行き、GMの出迎えを受ける

2001/7/25 フェイエノールトのファン感謝デー
 新人の慣例で、満員のデカイプにヘリコプターで降り立つ。紹介されてゴールへドリブルしてシュートするが外してしまう。
2001/?/?の記憶 ファーストゲームで1アシスト
 途中出場。スタンディングで迎えられる。
 右サイド、オーバーラップしていくエマートンに、ループパス。不安そうに振り向くエマートンの前にドンピシャで落ち、エマートンはエンドまで突進して折り返す。走り込んだトマソンが得点。
 サークル付近左にいた小野は、左サイドの選手にボールを要求。来たボールをダイレクトで前へ。横に流れていたトマソンはボールに合わせて縦へ突進し、キーパーも交わしてゴールへ流し込む。キーパーを交わした時点で、ファン・フォーイドンクが得点を確信して両手を挙げる。
2001/9/29 小野が全体練習に戻る
 15日のリーグ戦で右足首を傷めていた
2002/?/?の記憶 UEFAカップで優勝
 伸二が初の優勝を味わう。頭には日の丸の鉢巻。

02−03シーズン(フェイエノールト):2度目のワールドカップ
 フェイエノールトは苦戦。結局、シーズン終了後にチームの得点の柱ファンフォーイドンク、主将ボスフェルト、エマートン、カルーという主張のあるタイプを放出。
 ジーコ日本代表にも招集され、マスコミは、中田英寿、稲本潤一、中村俊輔と小野に「黄金の中盤」の再現を期待する。



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