1999年

1999/1/7 堀が平塚へ。岡野がアヤックスの練習に参加するため、オランダへ出発

1999/1/9 99新加入選手を発表。
FW盛田剛平(駒澤大学)、MF宮沢克行(明治大学)、DF池田学(清水商業高校)、MF吉野智行(習志野高校)、GK西部洋平(帝京第三高校)、FW高橋厳一(浦和レッズユース)
1999/1/14 U20に小野、U22に城定、石井

1999/1/27 小野が日本代表候補キャンプへ(2日まで)

1999/1/29 杉山がヴェルディへ

1999/2/2 小野、永井(ドイツから)が仏ブルキナファソ遠征メンバーに

1999/3/6 開幕ガンバ戦2対1で勝利。勝ち点3

1999/3/13 アウェイ市原0−0でJリーグ初の引分け

1999/3/15 U-20候補に小野、池田学、永井

1999/3/20 神戸戦0対0で引分け

1999/3/23 山田が日本代表になる

1999/3/24 U−20日本代表に小野と永井

1999/3/27 対広島戦に1:4で敗れる

1999/4/3 ヴェルディと2:2で引分け

1999/4/5 ユース1:2でカメルーンに敗れる

1999/4/7 ユースが3:1でアメリカに勝つ

1999/4/10 平塚に3:0で勝利

1999/4/11 ユースが2:0でイングランドに勝つ

1999/4/15 ユースがPK戦でポルトガルに勝つ

1999/4/17 サンガに0:1で今期の初勝利をプレゼント

1999/4/18 ユースが2:0でメキシコに勝つ

1999/4/21 ユースが2:1でウルグァイに勝ち、決勝進出

1999/4/24 レイソルに1:3で負けて11位。ユースが決勝で負け

1999/4/28 Fマリノスに1:2でV負け

1999/5/1 清水と2:2で今期4度目の引分け

1999/5/5 セレッソに2:3で負け、

1999/5/8 ジュビロに3:4で負け、11位

1999/5/15 鹿島に1:0で初完封勝ちで11位のまま

1999/5/22 福岡に2:3で負けるも11位のまま

1999/5/29 名古屋に1:8で敗れて'991stSは13位

1999/6/5 岡野が帰国

1999/6/7 桜井がヴィルディへレンタル。中村忠(ヴェルディ川崎)路木龍次(横浜F・マリノス)が加入。

1999/6/8 日本代表に小野、U22に小野と石井

1999/6/12 ナビスコカップ第1戦大分トリニータに敗れる

1999/6/19 大分に3:1で勝つ;原監督を更迭

1999/6/20 小野は南米選手権に出場せず

1999/6/22 原監督更迭をニュースリリース
「当クラブは、成績不振により原博実監督(40歳)の更迭を決定致しましたのでお知らせ致します。」
1999/6/30 ザッペッラと契約更新(1年間)

1999/7/4 小野伸二フィリピン戦で負傷

1999/7/5 小野伸二に全治3ヶ月の診断

1999/7/6 小野の手術成功

1999/7/9 新監督にア・デモス氏

1999/7/17 小野が抜糸;新監督来日、記者会見

1999/7/20 なび杯準々決勝第1戦鹿島に2:0で勝つ
 印象的なシーンは、自陣右サイドでのフリーキック。山田が蹴ろうとしたところ、ベンチの指示で山田は上がり、中村が蹴った。ロングキックがカットされ、ダイレクトで繋がれて速攻を受けて危なかった。
 ハーフタイムが終わってグラウンドへ向かう山田と中村。後ろから監督に声をかけられて立ち止まる山田。監督の左腕で肩を抱かれて会話を交わす。最後は監督が山田の頭をぽんぽんとたたく。観ていた中村が山田へ歩み寄り、「何の話だ」と聞く。山田は監督との会話より長い時間をかけて中村と話す。山田がオランダ語を勉強したのか、中村が英語をできないのか。
1999/7/24 J杯第2戦鹿島に0:3で敗れ、ベスト8止まり

1999/7/27 小野が退院

1999/8/7 2nd開幕戦、京都に1:2で敗れる

1999/8/8 前日の敗戦を受けて再び3バックの練習

1999/8/14 柏に2:3の延長負け;山田が初のリベロ

1999/8/18 横浜Fマリノスに敗れて年間順位15位になる

1999/8/21 エスパルスに0:3で敗れて4連敗

1999/8/28 C大阪に勝つ。年間、2nd 15位へ上がる

1999/9/1 小野がグラウンドでのリハビリを開始

1999/9/4 ジュビロに1:2延長負け。年間、2nd最下位へ

1999/9/11 鹿島にAでVゴール負け

1999/9/15 年間13位の福岡にAで1:2VG負け。最下位

1999/9/18 名古屋に駒場で1:2延長負け

1999/9/23 G大阪にAで2:1勝ち。2nd14位、年間15位

1999/9/27 小野が二十歳になる

1999/10/9 小野が練習に合流

1999/10/11 小野がトップメンバーで練習

1999/10/15 千島トップ登録

1999/10/17 Jヴィレッジでの緊急合宿開始
土田、田北、西部、山田、城定、池田学、中村、ピクン、土橋、ペトロヴィッチ、小野、ベギリスタイン、内舘、石井、河合、吉野、路木、岡野、福田、福永、大柴、盛田、永井 以上23名
1999/10/18 小野は左足腓骨筋けんしょう炎で午後を休む

1999/10/23 小野が練習試合に出場

1999/10/25 キャンプ終わる

1999/10/29 ザッペッラ登録抹消

1999/10/30 ファイブ・ファイナルズ第1戦の神戸にAで0:2で敗れる。順位変動無し。

1999/11/17 市原に駒場で1:0で勝ち、勝ち点で追いつく

1999/11/20 平塚に駒場で2:0で勝ち、年間順位14位

1999/11/23 川崎にAで2:2の引分け。直ちに合宿

1999/11/24 ピクン全治3箇月

1999/11/26 小野が日本代表候補に

1999/11/27 広島に駒場でV勝ちもJ2降格決定
90分以内なら勝ち点3、延長勝ちなら勝ち点2、という制度下で、勝ち点3を取れば自動的にJ1残留が決定した試合だった。90内では残り僅かな時に交代出場した福田がVゴールを決めた。残留決定と勘違いした池田学(小野の1年後輩の清水商キャプテン)が、涙ぐむ福田に喜びの表情で抱き付いていく映像は、その後、何度となく登場することになる。
1999/11/28 レッズ公式サイトにクラブの挨拶が掲示
99.11.28 [ サポーターの皆さんへ ]
たくさんのあたたかいご声援ありがとうございました。誠に残念な結果になり申し訳ありません。来シーズンはJ2で戦うことになりますが、この悔しさをバネに、必ず1年でJ1に復帰できるよう、クラブ一丸となって闘ってまいります。今後ともファン、サポーターの皆さまの変らぬご声援をよろしくお願い申し上げます。  浦和レッドダイヤモンズ
1999/11/29 チキ契約期間満了

1999/12/10 福田契約

こんにちは、福田正博です。
もう報道されているようですが、昨日チームと来季の契約をしました。
昨日の交渉の中で、来シーズン1年間でJ1に復帰するための戦力を整えてやっていく、という話を横山さんからはっきりと聞きましたし、僕自身の考えも全部言いました。もうすぐ33歳になる僕の年齢で、J2で戦うというのは正直に言って、決意がいることです。こういう時に、どういう道を選択するかは、人それぞれですし、正解というものはないと思います。J1でプレーできる道を求めるのも、間違いだとは思いません。 しかし、僕はずっとこのチームで育ててもらったのだし、これからもここでやっていきたい、という気持ちが強いです。J2に落ちてしまって、チームとしてJ1復帰を目指すときに、投げ出してしまうような道は選びたくありません。
来年もレッズでプレーすることを決めたのには、サポーターのみなさんの存在が大きいことは言うまでもありません。ここまでずっと一緒に闘ってきたみなさんが、「来年も応援する。一緒に闘う」と言ってくださることも、大きな力となりました。いつも試合で後押ししてもらっていますが、今回はこういう決意をする後押しをされた感じです。
来季の監督はまだ決まっていません。今回、しみじみ感じたことですが、誰が来ても成功する場合もあれば、失敗する場合もあります。どんなビッグネームの監督を連れてきてもチームにフィットしなければ、うまくいきません。実際に来てみてやってみなければわからない、というのが事実です。ですから、チームも今回は慎重になっていると思います。単純に、遅いよ、というつもりはありませんが、出遅れたら取り戻すのは大変ですから、最大限の努力をしてほしいとお願いしました。 自分の気持ちにけじめをつけて、すっきりした気持ちで天皇杯に臨みます。 来年も一緒に闘ってください。 (1999年12月10日)
1999/12/17 小野2回目の契約交渉

1999/12/19 天皇杯4回戦:柏に順当負け

後半開始で小野が倒された。痛がっているので、私は駄目だろうと思ってみていたが、トレーナーは丸印を出す。しかし、立ち上がってピッチに戻る許可を貰おうとしている間に、小野がトレーナーに駄目だと言い、退場した。
試合は、小野が居る間はボールも良く支配していたが、決定力が無く、というより、フォン・ミョンボが素晴らしく、得点を入れられない間に、カウンター気味で点を奪われ敗北。J1とJ2の違いを見せ付けられたゲームで、試合後はサポーターからブーイング。
1999/12/22 フロント陣留任を知る。
1999/12/28 斉藤和夫新監督発表
中川社長は「みなさんが驚くような人。誰でも知っている有名な人」と発言していたが、駄目だった模様。結局、「アマチュア最後の三菱の監督で、プロ化と共に、プロの監督はする気がないと辞任し、なぜかその後、富士通川崎の監督に就任して、J昇格に失敗。その後、レッズフロントとして、働いている人」ということのようだ。

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