過去の記録


1998年シーズン:小野入団し、セカンドでは3位に
 小野入団の年。前年にギドとともにケッペルが去り、ドイツの時代が終わったが、仮に1年早く小野が入団していれば、ケッペルのサッカーを見ることができたのではないか、という思いを禁じえない。
 小野は入団当初から、卓越した技術でチームの中心選手となる。当然のようにフランスワールドカップにも出場したが、出場時間は僅かだった。
 チームは、小野、チキ、ペトロが機能し、セカンドステージでは3位となる。
1998年のレッズ日記

1999年シーズン:小野が大怪我し、J2へ降格
 小野の厄年。前半はキャプテンとしてワールドユースに出場して準優勝。しかし、7月4日の五輪予選のフィリピン戦で、後ろからのスライディングを受けて大怪我。20歳の誕生日前後には廃刊寸前の週刊誌に暴力行使とする写真を掲載される。
 チームは、原博美監督が、身長はあるが鈍足で反応力に劣っていてJ1では使えないと思われるFWに育成する魅力を感じ、自ら居残りヘディング教育するなど入れ込んでしまい、チームは低迷。当人は主力の怪我など言い分があり、残留を希望したため、更迭の形を取る。後任はオランダ人ア・デモス。しかし、フロントは通訳を用意しないなど、未だプロクラブの体をなしていないことを露呈。結局、新人が機能しなかったことも含めて、クラブの実力としてJ2に降格。ア・デモスは慰留されたが、当然のこととして辞任する。しかし、フロント陣は変化無し。後任監督はフロントから斉藤和夫氏。
1999年のレッズ日記

2000年:J2を戦い、ぎりぎり最終節のVゴールでJ1復帰を決定
 小野が怪我がちだったが、そのために代表に呼ばれることが少なかったことがレッズには幸いした。しかし、Kinu&GEN さんの「めおとサポーター奮戦記」危惧していたとおり、J2の戦いは2巡目から厳しくなった。
 このため、途中で、横山GMが総監督になり自ら指揮を執ることになった。最初に行ったのは、フィジコにフラビオをブラジルから呼び寄せること。[フィジコ不在については、劣悪な大原のグラウンドとともに、レッズに怪我人が多い原因として、かねてからサポーターの批判の的]厳しい指導でJ2脱出に貢献。正樹のVゴールは伝説となった。
2000年のレッズ日記
2001年:ブラジル風の伝統が加わる。小野が欧州へ
 知将チッタ、途中からピッタとブラジル人監督、外国人選手も快速FWトゥット、元セレソンのボランチのドニゼッチ、チッタの教え子でトップ下のアドリアーノ、途中から加入したJ2連続得点王のエメルソン(怪我がちだったドニゼッチの後)、汗かきトップ下のアリソン(FKを蹴りたがるアドリアーノの後)とすべて(?)ブラジル人で、誕生日を迎えたチームメイトに小麦粉と卵を頭からかけるという風習が根付く。ファースト7位、セカンド12位は期待外れ。
2001年のレッズ日記(途中で付けなくなった)
2002年:森GM、オフト監督の1年目。福田、井原が最後の一花
 体制が一新され、塚本代表、森GMとなる。ブラジル色は一掃(フラビオも退団)され、オフト監督、ヤンセン・コーチのオランダ体制。
 基本は3−4−1−2で、守備は2年目の井原をスイーパーに置いたマンマーク。当初は、完全なマンマークで、後半に疲れが見える状況だったが、シーズン最後の頃は受け渡しをするようになった。攻撃は、ボランチ福田からの配球でトゥット、エメ、アリソンの力で得点。追い越し禁止でつまらないと評されたが、素人目にもチームの進歩は明らかで、ファースト11位、セカンド8位、ナビスコカップ決勝進出の成績を残す。
2002年シーズン
2003年:オフト2年目
 守備はマンマークの受け渡しが多くなり、リベロシステムの3バックになった。攻撃では、ボールに顔を出す動きが円滑になり、ポゼッションサッカーに近付く。エメが周りを使うようになり、達也が生きてくる。

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